ブログ|箱根の旅館ならホテルおくゆもと
箱根駅伝びっくりエピソード(大正時代のお話)
本日は 箱根駅伝の復路競走の日。
両日ともに 気持ちの良い快晴。スタート地点の箱根町の方角には 雲一つない、素晴らしい蒼穹が広がっている 箱根です。
本日も 写真は 箱根二子山、当ホテルの正面玄関を出て右手を向くと見える景色です。
毎年 この駅伝大会には 様々なドラマがあり、伝説を残す逸話も多く生まれますが、
本日は、知る人ぞ知ると言うか、私達 箱根で働く者たちも ほとんど知らない、大昔のお話をさせて頂きます。
現在は 白バイの先導とテレビの中継車やバイク実況のアナウンサーさんも居たり、賑々しく駆け抜けて行くのが 毎年の光景ですが…昔は だいぶ様子が違ったのだそうで、大正九年(1920年)の第一回大会は、なんと、ガイドの人に付き添われて 選手たちが走っていたんですって!「箱根の山は天下の剣」と言われる、旅人や飛脚が超えるのも一苦労だった険しい山ですし、まだ 道路の舗装もされていなかったので、案内人が必要だったそうです。
では、誰が そのガイド役を務めたのでしょうか?
険しい山登りのコースは 凸凹も多い砂利道でした。選手たちには慣れない その道も、野山を駆け回り遊んだ子供達には「自分の庭」のようなもの…そうです、なんと、主催者から伴走を依頼されていたのは 中学生の子供達、小田原中学の競争部選手たちだったのだそうです!
しかし、それも 途中の芦之湯(あしのゆ)と言う場所まで、あとは自力でゴール目指して走ったのだそうですが、想像を絶する過酷な駅伝大会だったとのことです。
また、開催の日時にも だいぶ違いがあったそうで、現在は 1月2日3日の往路・復路 共に、朝8時のスタートで 13時過ぎにはゴールしていますが…この第一回大会は、2月14日の開催で、なんと、13時にスタートし 20時~21時にゴールしていたんですって!冬は17時には真っ暗になってしまう箱根の山を どうやって走っていたのでしょうか?
小田原中継地を通過する時点で18時過ぎ、すでに暗くなった箱根の山登りに挑む選手たち、今ほどは道路の状態も良くなく、また標識なども整っていません。2月の箱根の寒さと言ったら、道に迷い 走るのを止めてしまったら カチンコチンに凍っちゃいます!
そこで、箱根の青年団有志たちが 山の男らしさたっぷりの、ワイルドなサポートをする為に立ち上がりました。
分かれ道のある所、迷いやすい所には、大きな焚火を燃やして待機。選手の到着を松明を振って迎え、また、猟銃を打って仲間に選手通過の合図を送って連絡し合ったのだそうです。
1位の選手は20時30分のゴール。そして、最後の選手は、一時 行方不明になったかと心配されたのでしたが、青年団の救助により 再度 コースに戻ることができ、21時53分にゴールしたそうです。
選手の皆様がすごいのは勿論ですが、地元民の協力体制の強固な事、山の男たちの熱い心に、とても感動するお話です。
本日も たくさんのお客様が当館より 沿道での応援にお出かけになりました。道路のお混雑など、ご不便をお掛け致しましたが、ご協力を賜り、誠に有難うございました。
フロント 細川